中島典人(元博報堂常務)
 2001.07.01《紫水》NO.22

故旧忘れ得べき(三)

黄山神韻

 

八女出身の作家小島直記さんに『人生未だ七十の坂』と いう表題の著作がある。

なるほど、と感心はするが、自分にはとても「未だ」と云いきって歩み始める自信はない。それでも、自分がいま立っている周囲を見まわしてみると、元気づけられ、勇気づけられるものが、いくつかはある。

それは家族であり、友人である。家族はともかく、多くの友人に恵まれたことは、ほんとうに有難いと思う。

多士済々、いずれも個性的で誠実で、友情厚き人々。

その中で、ひときわ異彩を放つ一人の人物がある。

汪蕪生。在日中国人写真家である。(敬称略)

一言でいうと不思議な人である。奇オというか、奇人というか、汚濁にみちた今の世の中で、これほどひたむきに、純粋に生きている人間を、すくなくとも私は他に知らない。求道者といいたいが、そんな素振りは毛頭なく、いつも微笑をたやさない。

その奥に、強靭な意志と、こと仕事に関しては一寸の妥協も許さない頑固さを秘めている。一方、世俗のいろいろな欲望には、呆れるほど無関心である。

中国の東南部、安徽省に黄山という山がある。

山というより、二湖、三瀑、二十四渓、七十二峰を擁するという広大な景勝地であり、世界遺産にも指定された。

汪蕪生は同省蕪湖市で生れた。合肥市の師範大学物理学科を卒業後、地元新聞社に就職。カメラマンとして活躍中、はじめて黄山に出会った。

彼の言葉によれば、非常に感動し、興奮し、魂まで衝撃をうけた。黄山に接して人生観が丸ごと変ったという。

爾来三十年ちかく、彼のテーマは黄山だけとなった。?

八一年、日本に留学。働きながら日大芸術科や東京芸大で研修を重ね、九〇年の一年間はニューヨークにも滞在するが、その間も彼は決して黄山から離れる事はなかった。

一、二年ならともかく、十年二十年と同じ物象を見つめ続ける。これはいったいどういうことだろう。

それは山に問いつづけることです。と彼は云う。

自分とは何か。人間とは、世界とは、世界の中で人間が生きるということは?

ある時突然、山に向きあう自分が、全く無心になっていることに気がついた。山から神の音が聞えてくる。

黄山と出会って、既に二十年が経っていた。

彼はようやく、「真を写した」と確信できる作品を、純粋な一滴一滴を絞り出すように生み始める。

その集成を八八年『黄山幻幽』として、九三年には『黄山神韻』として、いずれも講談社から刊行した。

ある対談で汪蕪生は自分の美学を述べている。

「美の解釈は、近代になって難しくなっています」「私にとっては非常に簡単。美は〈感動〉です。美は人々に勇気を与える。〈生きていかなきゃいけない〉という元気を与えるものです。その再現というか、創造が芸術家の使命だと思っています」

具体的にはどういう作品か、ここで私がつまらない解説をするよりも、東京都写真美術館で開かれた汪蕪生展で、会場のノートに記された或る御婦人の感想文を紹介するほうが、より適切かと思う。

━汪蕪生先生。感謝を申し上げます。こんなに風景写真で感動したのは、初めてです。すいこまれそうです。(中略)高校生の娘が学校の行事で、先生のこの作品を見せていただき、そして、幸運にも、たくさんお話させていただいて!

帰宅して、瞳を輝かせて、話してくれました。お母さん絶対見てきて!そして本日友人と一緒に参りました。

声が出ませんでした。涙が、ふるえがきました。

汪先生のお顔を拝見させて頂いて、納得致しました。世俗のものを追い求める方でなく、本物を深く追い続ける方だということを。

娘は来春、芸大を受験する予定です。テーマは「命」これを追い求めていきたいのだそうです。思春期の嵐の中で、悩み続けた娘は、汪先生との出会いを深く心に刻みつけたようでございます。

汪先生、子供たち、そして私達、中、高年にも、作品を通してお励ましをこれからも続けていただきたいと存じます。今後ともお身体無理されずに、頑張って下さぃませ。

中野区上高田在住 橋本みどり 母

橋本 瑠美 娘 高3

『支える人々。』

汪蕪生展の会場には、深い静謐が充ちている。巨大な黄山の峰々が、ほの暗い照明の中に浮び上る。

その前で立ちつくす人。深い溜息をつく人。そっと瞳を拭う人。そこには宗教的雰囲気さえ漂う。

作品はすべてモノクロであり、主題は黄山だけである。

動かし難い威厳にみちた自然を通して、限りある生と、永遠に至る本質を一途に迫い求める鋭い眼がある。

作品はおのずから高い精神性をもつ。

その一枚一枚に彼は長い歳月をかけ、そのあと撮影の時間以上に長い暗室作業が待っている。皮肉なことに、作品が素晴しければ素晴しいほど、使い棄てのジヤーナリズムからは遠ざかる。彼の困窮は並大抵ではなかった。

それでも彼は決して妥協しようとしなかった。

彼のまわりに少しずつ、理解者と支援者があらわれ始めた。小山五郎氏、平岩外四氏、後藤田正晴氏、隅谷三喜男氏など、彼が今でも「日本の父親、私の大恩人」と尊敬する各界の大人物である。その方々の影響力はいかにも大きく、支援者は現役若手の財界人や政治家にも拡がった。

特にIT革命の火付役といわれるNTTデータの藤田史郎氏や第一ビル社長の山口隆氏の熱心な励ましは彼を力づけ、強く支え続けた。

そして何より、彼を支える最大の力は人々の感動だった。

『サイベル博士との出会い。』

オーストリアのウィーンにほど近いクレムス美術館で、山を通して内なる世界を表現した作品という基準のもとに、集められた作品の特別展が、九七年九月に開かれた。

思いがけずも要請を受けた汪蕪生は、常日頃憧れていた芸術の都ウィーンからの誘いとあって、喜んで五点の作品を出展した。

開幕式当日。展示された汪蕪生作品の前を、行きっ戻りっ、何度も足を止める一人の紳士があった。

汪は、この紳士が有名なウィーン美術史博物館の館長、サイベル博士であることを、あとで知った。

さらに、パーテイ席上、紹介された博士から「来年の春あなたの展覧会を開くことに決めた」と告げられ、予想もしない出来事に驚愕した。

現存する芸術家としては、また写真家としては前例のない作品展、汪蕪生「天上の山々」展。九八年五月開幕。

さすがに国際芸術都市ウィーンの美術史博物館だけあって、期間中、世界各地の三十八ヶ国から四万人の人を集めた。汪蕪生が提示する東洋の心が、いかに西洋の心に強い衝撃と感動を与えたか、観客からよせられた六四〇通のメッセージの一つを紹介したい。

―無限の中の一瞬、絵画のような写真。永遠にゆっくりと、穏やかに、しかし、ひきとめようもなく我々のせわしない日常の中を流れてゆく。―深い感動、神々の書道。

『鑑真和上像を写す。』

奈良西の京の唐招提寺が、金堂の平成大修理を行うに際して、東京放送はそれを記録する十年にわたる大プロジェクトを組んだ。

そのさきがけとして世界各国から十人の写真家を招聘。新しい視点で当寺を撮影するよう要請した。汪は応じるかどうか、かなり迷っていたが、結局、鑑真和上にひかれて奈良に出発、一週間撮影に打ち込んだ。本年一月、その成果は東京での「鑑真和上と世界の写真家展」で発表された。

それらの作品は、モンタージュに近いほど手を加え、技巧をこらしたものが大半だったが、その中で汪蕪生だけがまっすぐに、ありのままの和上の姿をとらえていた。

それは息をのむ程に厳しいものであった。

三十年にわたる黄山との対時で鍛えあげられ、磨き抜かれた彼の視線が、鑑真和上のすべてを我々に伝えてくれた。

私は若い学生の質問に答えた彼の言葉を思い出す。

「本質を把えるためには、過剰なものをすべて捨てさること。
作品の上でも、日常の生活でも」

そして独身の彼は、今朝も相変らず、パンの一片とコーヒーだけの食事を一人だけでとっていることだろう。